プロフィール

設立当時のトピックス

・5月11日 - 日本山岳会の登山隊の植村直己会長

・松浦輝夫がエベレスト登頂に成功。

補足:日本山岳会エベレスト登山隊(隊長:松方三郎、登攀隊長:大塚博美)の松浦輝夫と植村直己、ついで12日平林克敏とシェルパのチョレーターが登頂に成功。同隊の小西正継等が南壁初登攀に挑戦するも8500m地点で断念。

・日本山岳会東海支部(原真等)マカルー峰(8463m)東南稜より登頂(5月23日)。

・森田勝・岡部勝・羽鳥祐治・小宮山哲夫:アイガー北壁冬季日本人初登頂

・三浦雄一郎:サウス・コル直下の7780m地点から約3kmのスキー滑降に成功。

・岐阜県警:山岳警備隊結成

・警視庁山岳救助レンジャー部隊設置(部隊は主に篭城事件において高所からの突入しての犯人制圧やヘリコプターからの降下しての活動、山岳救助などを任務とする。):警視庁第七機動隊に置かれている山岳救助を任務とする部隊。

・新穂高ロープウェイ開設

ダイワ山岳クラブについて

1.設立の思い

昭和45年5月、ある工場の屋上で先ほどからまばたきもせず、すっと丹沢山を見上げている1人の男がいる。5月とはいえ今日の風はやけに冷たい。 谷川岳での送別山行の思いで、そして仲間が人もいない大和に来てこれからどうしょうか・・・・・・山を見ては考え、考えてはまた山を見る。 所属できる山岳会さえないこの大和ではただむなしい日々が過ぎるだけである。 先程から丹沢山を見つめているこの男、ゆっくりとまばたきをして心の内に「山岳会をつくろう。」と叫んだ。6月のある日、職場に紅顔の美少年(会報第一号による。)が入って来た。何となく今まで山をやっていたような体つきをしている。(本当はぜんぜんやっていなかった。) こいつに的をしぼってみよう。その週末小野寺、飯田、清水の3人で丹沢山の大室山~加入道山へと山行をした。

2.当時の大和市

当時の大和市における登山活動は一般の山岳団体よりも職域山岳会の方がめざましい活動をしていた。特に車体工業、岡野電線、日本アビ、日本ビクター、などは県下に知られた山岳会である。しかし、これらの山岳会をまとめていく上部団体はまだ存在していなかった。やがて月日がたつうちに。神奈川岳連加入の必要や、山岳スポーツ団体としての確固たる地位を築くため昭和37 年4月に大和市山岳協会を設立した。発起人は、車体工業の中村氏、大和プレスの橘川氏、岡野電線の稲葉氏、日本アビの上野氏の4人である。また、初代会長は現県会議員の加藤義治氏になっていただいた。その後38年には大和工業も加入し活動していたが39 年ことより新旧役員の交代などにより活動も下火となり一時は消滅したかにみえた。この時に現れたのが、現会長の大沼氏である。

3.みやま会とダイワクラブ

大和市山岳協会が下火となったころ、昭和39年に「みやま会」が生まれた。創立者はダイワスポーツ店主の飯山氏や犬井、大矢氏であり、常時7~8人が毎月1回必ず集まっていた。活動も丹沢を中心に鳳凰三山や入笠山、谷川岳へと活発な活動を行っていた。飯山氏などは山に行く度に店を閉めるので近所の人達は、いつ商売をやるのだろうと不思議に思ったということでる。しかし、だんだん山になれてくると、より高きへとめざすものも現われ、今までの山行では物足りなくなってきた。そしてついに43年に中岡氏を中心とする3名の仲間がみやま会をやめ、ダイワクラブを設立した。この会は主に沢登り岩登りを中心とした活動を行いまた人数も少ないためか会則などもあまりこだわることをしなかった。しかし、その後も会員は増えず下図のようなワッペン作りはしたものの44年12月に解散となってしまった。

黒のビロード地に銀色のカラビナを刺繍し、燃えるような真紅の山と、文字は黄色で刺繍した華やかなものだった。

清水氏のデザイン会員のザックに張り、赤色のフェルトが鮮やかだった。

4.みやま三想会とダイワ山岳クラブ

みやま会とダイワクラブが消えて半年後、つまり昭和45年5月に首記のところに帰るわけであるが、正式に第二期ダイワクラブが発足するのには元の柿島氏が入部した、45年9月である。当時の部員は、小野寺、飯山、飯田、柿島の4人であった。代表を小野寺、チーフリーダーは飯田とする。しかし、山行内容は、T.H.C.の清水、小笠原と合同で行い、ダイワクラブとT.H.C.が一体であった。その後47年3月までつづいたが一身上の都合とT.H.C.再建の為、小野寺、柿島だけを残し、ダイワクラブから遠ざかることになった。この時に名称をダイワ山岳クラブと改名し旗とザックマークを作る。このような時に入会して来たのが、現同人みみずくの代表である中村直昌氏だ。中村氏が入会してからのダイワ山岳クラブは目を見張る発展をする。奥村、庄子、杉原、木村などがつぎつぎに入会し、1月に「あーべんとぐりゆうえん」第一号を発行した時点では会員数が25名にもふえたのである。この会報第一号発行は当時女よりも女らしいと自他共に認める奥村氏の努力によるものであった。49年には、ダイワ山岳クラブ内に「大和R.C.C」が発足した。メンバーは、柿島、小野寺、串橋、清水、田中である。のちに六花同人と名称を改めたが1年たらずで串橋以外ダイワ山岳クラブに戻ることになった。明けて50年にダイワ山岳クラブが大きく変わることになる。50年5月に一身上の都合により、中村氏以下17名もの会員が会をやめることになった。残る6名。しかしこの時よりダイワ山岳クラブは岩登り中心の山行内容となり、現在に最も近い形態となるのである。また、みやま山想会はこのころ発足して、ダイワ山岳クラブとみやま山想会の関係はなにもないが、39年~44年までの関係を考えると何か赤の他人同志ではないような気がする。今後も協力しあって活動していきたいものです。50年度後半になると、成田、加藤(美)、坪井、渡辺、等が入会し、オールラウンドな登山の実施を目標として活動してきたが、次第に沢登りや岩登りが多くなってしまった。そしてそのまま51年度に入会した、太田、谷口、等に引き継がれ更に発展することになった。このころには大多数の会員が年間山行日数50日を超え活動範囲も多方面にわたって計画がたてられた。この年に異色の新人加藤が入会する。この様に書くと入会する人が多くてクラブがパンクするのではないかと思われるが残念なことに退会する人も多い。51年度に木村、加藤(美)、矢野、等9名が退会し、52年度には坪井等3人が退会してしましさみしい限りである。しかしこの年(花の3人娘)が入会してきたのでクラブ内は、大変にぎやかであった。53年度には(風変り新人コンテスト)が行われた。もちろん真面目な新人も入会した事は確かだ。コンテストの第一は森元17才にしクラブ内で最も酒が強くバッカスの神と言われた加藤をノックアウトしたのである。またおしくも番外になったが新人歓迎会で飲みつぶれ何もしないでかった伊藤などもなかなかのものである。その他酒を一滴飲ますと所かまわず寝てします坂本、どんなキビシイ状態に置かれてもいつもニコニコしている岡田等がいる。

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